天智天皇8年に(669)藤原鎌足が造立した釈迦三尊像を安置するために、夫人の鏡女王が、京都山科の私邸に建てた「山科寺」を始まりとする。
その後飛鳥廐坂の地に寺を移し「廐坂寺」と称した。都が平城京へ移されるに及んで、平城京左京三条七坊のこの地に移し「興福寺」と名付けた。
この創建の年を和銅3年(710)とする。その後天皇や皇后、また藤原氏の人々の手によって次々に堂塔が建てられ整備された。
奈良時代には四大寺、平安時代には七大寺の一つに数えられた。特に摂関家藤原北家との関係が深かったために手厚く保護され、
寺勢はますますさかんになった。平安時代には春日社の実権を手中におさめ、大和国を領するほどになった。
鎌倉・室町時代には幕府は大和国に守護を置かず、興福寺がその任にあたった。幕府による宗教政策が厳しかった江戸時代には21000石余の朱印が与えられた。
明治時代始めの神仏分離令・廃仏毀釈・社寺上地命などで興福寺は荒れたが、その後の努力で復興し、新しい興福寺の歴史を刻んでいる。
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志賀直哉邸復元へ 奈良市高畑町
2008.10.4 22:58
改修される志賀直哉の旧居=奈良市(奈良学園提供) 小説「暗夜行路」で知られる文豪、志賀直哉(明治16〜昭和46年)が暮らした奈良市高畑町の旧居(登録有形文化財、
昭和3年築)について、所有者の奈良学園(同市)は4日、直哉自身が設計したとされる当初の姿に復元する方針を明らかにした。公開部分も広げる予定で、
直哉の美意識が伝わる邸宅が来春以降に全面的に見学できそうだ。
直哉は昭和4〜13年にこの邸宅に住んで執筆活動に取り組み、「暗夜行路」も完結させた。武者小路実篤ら白樺派の文人、画家らが集まり、
「高畑サロン」とも呼ばれた。旧居は木造2階建て延べ約410平方メートル。数寄屋造りが基調だが、洋風の娯楽室やサンルームも取り入れている。
直哉が暮らした後は旧厚生省の宿泊施設などに使われ、模様替えが繰り返されてきた。
呉谷充利・相愛大教授(建築・文学)が当時の写真をもとに調査した結果、現在の邸宅を囲む漆喰(しっくい)塗りの塀はもとはひなびた土塀だったことを確認。
2つの子供部屋を仕切る壁に窓が存在したことや、サンルームの鴨居(かもい)の高さなどが変更されていることも分かった。復元工事では、できるだけ当初の姿に近づけ
、直哉の時代の雰囲気を味わえるようにするという

東大寺は聖武天皇の皇太子基親王の菩提を弔うために、神亀5年(728)に建てられた金鐘山寺(きんしょうさんじ)が、天平13年(741)に国分二寺(金光明寺(きんこうみょうじ)・
法華寺(ほっけじ))建立の詔が発せられたのに伴い、昇格してなった大和国金光明寺を前身とする。
続いて天平15年(743)に盧舎那(るしゃな)大仏造立(ぞうりゅう)の詔が発せられ、天平17年(745)より造像工事が始まった。天平21年に完成、
同時に大仏殿の建立も進行して、天平勝宝4年(752)4月に開眼(かいげん)供養会が営まれた。
この少し以前から「東の大寺(ひんがしのおおでら)」という名で誰からともなく呼ばれるようになっていたが、そ
の後、造東大寺司によって西塔や東塔、講堂や三面僧房(さんめんそうぼう)などが造営され、「東大寺」としての七堂伽藍が次第に整い、
この役所が延暦8年(789)に廃止されるまで続けられた。斉衡2年(855)、大地震によって大仏の頭部が落ち、
その後修復されたが、源平の争いのあおりから治承4年(1180)に平重衡の軍勢により大仏殿をはじめ伽藍の大半が焼かれた。
しかし、諸伽藍が復興されるにつれ、沈滞気味であった教学活動も活発になり、鎌倉時代には、多くの学僧が輩出した。ところが、
永禄10年(1567)に至って三好・松永の乱が起り、わずかな建物を残すばかりとなったが、時は戦国時代に入り、復興は難渋をきわめ
、簡単な修理しか出来なかった。江戸時代に入り、龍松院公慶が幕府に上申し、諸国勧進と諸大名の協力を得て、元禄5年(1692)に大仏の開眼供養が、
宝永6年(1709)に大仏殿の落慶供養が行われた。その後、明治・昭和の二度、大仏殿の大修理がなされた。
《ランチ》
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日替り定食(土日祝除く)
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1,200円
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ホリデーランチ(土日祝のみ)
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1,500円
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茶粥膳
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1,900円
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お造り定食
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1,900円
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天麩羅定食
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1,900円
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月替わり膳
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2,500円
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松花堂
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3,000円
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《ディナー》
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大和遊膳
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3,800円
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若草会席
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5,500円
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月替わり会席
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7,000円
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季節の会席
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8,500円
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興福寺略史(興福寺国宝館拝観券より)
興福寺は天智天皇8年(669)、中臣(藤原)鎌足の私邸(山城国宇治郡山階)に建てられた山階寺(やましなでら)を起源とし、
天武朝には大和国高市郡に移って厩坂寺(うまやさかでら)と称されました。元明朝の和銅3年(7 1 0)に都が平城に遷されると、鎌足の子息藤原不比等(ふひと)は、
厩坂寺を新都に移すべく、平城京左京三条七坊の地に寺地を確保して寺名を興福寺と改めました。和銅7年(714)に金堂が創建され、
不比等の一周忌の養老5年(721)に北円堂が建立されました、ぞの後、聖武天皇や不比等の娘である光明皇后の発願によって東金堂や五重塔が建てられ、
やがて、七堂伽藍の大寺院になりました。
奈良・平安時代に寺観・内容ともに充実した興福寺は藤原氏の氏寺として栄え、平安中期以降は春日社をも支配して勢力を拡充し、法相(ほっそう)教学を研鎌する法相宗の大寺として
南都仏教界の重鎮となりました。しかし、長い歴史のなかで、戦火や天災などによって度々堂塔が焼失しました。とくに治承4年(1180)の兵火は興福寺を焼亡させましたが、
仏師院尊や成朝・明円・康慶・運慶などの有名々巧匠たちが参画した、いわゆる鎌倉復興造営がおこなわれました。
鎌倉時代は武士勢力が強くなりますが、幕府は大和に守護職を置かず、興福寺をしてその任に当たらせたということは、
往時の興福寺が各方面に与える影響がいかに大きかったかがわかります。
戦国時代になると武士勢力が強大となり、織豊時代は、検地によって寺領削減がおこなわれ、寺院勢力の弱体化が進行しました。
江戸時代になると、亨保2年(1717)の大火で中心髄藍のほとんどが焼失レました。この火災では、かろうじて東金堂・五重塔・食堂・北円堂・三重塔・大湯屋が罹災からまぬがれ、
その後、ようやく南円堂と中金堂のみが再建されました。
明治初頭、神仏分離による廃仏殿釈(はいぶつきしやく)が断行され、興福寺は瓦解同様の姿となりましたが、その後の努力で法灯護持がなされ、現在もなお復興途上にあります。





H21.7.10 |
JTB |
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34600 |
H21.7.27 |
パスポート |
800 |
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品川和楽 |
600 |
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大せんべい370*2 |
740 |
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ろうそく |
1050 |
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ミニ面530*4 |
2121 |
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夕食 |
2800 |
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H21.7.28 |
昼 |
1575 |
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お土産菓子 |
1272 |
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ねりもの |
1592 |
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ウルトラマン |
1600 |
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14150 |
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H21.10.13 |
10月13日〜15日奈良旅行費用 |
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51,000円 JTB以外(13日〜15日現地で支払) |
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73,000円 JTB支払予定 |
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124,000円 総費用 |
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名称 十二支 月将 本地仏
1 金毘羅 亥 微明 弥勒
2 和耆羅 戌 阿魁
得大勢(勢至)
3 彌伽羅 酉 従魁 阿弥陀
4 安陀羅 申 傳迭 摩利支天
5
摩尼羅 未 小吉 観音
6 宗藍羅 午 勝先 虚空蔵
7 因特羅 巳 太一
地蔵
8 婆耶羅 辰 天岡 文殊
9 摩休羅 卯 大衡 薬師
10 真陀羅 寅
功曹 普賢
11 照頭羅 丑 大吉 金剛手
12 毘伽羅 子 神后 釈迦(または陀羅尼)
内部には、薬師如来(室町時代・国重文)、日光・月光菩薩立像(白鳳時代の七世紀・銅造・国重文)は文治三年(1187)に飛鳥山田寺から移されたと云われています。文殊菩薩坐像((桧材・寄木造・鎌倉初期・国宝)、ゆいま維摩こじ居士座像(桧・寄木造。鎌倉初期・国宝)、十二神将立像(寄木造・鎌倉初期・国宝)四天王立像(桧・一本造・平安初期・国宝)等がある。
「興福寺・東金堂(国宝)」は興福寺の三つの金堂の一つであり、亀神三年(726)創建ですが、六度も焼失に遭い、応永二十二年(1415)再建されたものです。
工事中で、戸が閉じています。 33年前の写真を参考に
春日大社は神護景雲2年(768)、平城京の守護と国民の繁栄を祈願するために創建された神社です。春日山原始林に続く御蓋山の西麓に鎮座する藤原氏の氏神を祀っています
。神が白鹿に乗って奈良の地においでになって以来、鹿は神の使いとされています。平成10年(1998)、古都奈良の文化財として春日大社と春日山原始林が世界遺産として登録されました。
東大寺盧舎那仏像(とうだいじるしゃなぶつぞう)は、一般に「奈良の大仏」として知られる仏像で、東大寺大仏殿(金堂)の本尊である。
聖武天皇の発願で天平17年(745年)に制作が開始され、天平勝宝4年(752年)に開眼供養会(かいげんくようえ、
魂入れの儀式)が行われたが、現存する像は中世・近世の補修がはなはだしく、当初の部分は台座、腹、指の一部など、
ごく一部が残るにすぎない。「銅造盧舎那仏坐像」の名で彫刻部門の国宝に指定されている。
十二神将は、薬師如来の12の大願に応じて、それぞれが昼夜の12の時、12の月、または12の方角を守るという。そのため十二支が配当される。また、十二神将にはそれぞれ本地(化身前の本来の姿)の仏・菩薩・明王などがある。
各神将がそれぞれ7千、総計8万4千の眷属夜叉を率いるという。
経典によって若干用字や読みが異なるが、ここではもっとも一般的なものを挙げる。
漢名 読み 梵名 カタカナ 種字 本地仏/尊 十二支
宮毘羅大将(金毘羅童子) くびらこんぴら クンビーラ ヨー 弥勒菩薩 子神
伐折羅大将 ばさら ヴァジラヴァジュラ サク 勢至菩薩 丑神
迷企羅大将 めきら ミヒラ キリク 阿弥陀如来 寅神
安底羅大将 あんちらあんていら アンディーラアンティラ サ 観音菩薩 卯神
??羅大将 あじら アニラマジラ キリク 如意輪観音 辰神
珊底羅大将 さんちらさんていら シャンディラサンティラ タラク 虚空蔵菩薩 巳神
因達羅大将(帝釈天) いんだら インドラ カ 地蔵菩薩 午神
波夷羅大将 はいら パジラパジュラ マン 文殊菩薩 未神
摩虎羅大将(摩?羅伽) まこら マホラガマクラ キリク 大威徳明王 申神
真達羅大将 しんだら キンナラシンドゥーラ アン 普賢菩薩 酉神
招杜羅大将 しゃとらしょうとら チャトゥラチャツラ バン 大日如来 戌神
毘羯羅大将 びから ビィカラーラ バク 釈迦如来 亥神
十二神将像 [編集]
頭上には各十二支の動物を形どった標識を置くことが多い。日本では奈良・新薬師寺の等身大の十二神将像が、最古の作であるとともに造形的にも優れたものとして名高い。
12体の持物、ポーズ等は必ずしも統一されたものでなく、図像的特色のみから各像を区別することはほとんど不可能である。十二神将像は、中国では早くから制作され、敦煌壁画にも作例がある。中国では十二支と結び付けて信仰され、日本における作例にも頭上に十二支の動物を戴くものが多い。
日本では奈良時代(8世紀)の奈良・新薬師寺像をはじめ、数多く制作されている。多くの場合、薬師如来を本尊とする仏堂において、薬師如来の左右に6体ずつ、あるいは仏壇の前方に横一列に安置される。新薬師寺像のように円形の仏壇周囲をぐるりと取り囲んで配置される場合もあり、薬師如来像の光背や台座部分に十二神将を表す場合もあるなど、表現形態はさまざまである。
四天王像などと同様、甲冑を着けた武神の姿で表され、12体それぞれの個性を表情、ポーズなどで彫り分け、群像として変化をつけた作例が多い。






昭和34年(1959)、旧食堂・細殿跡に興福寺宝物収蔵庫を建設して一般に公開。通称名「興福寺国宝館」として、広く海外にも知られています。当館は仏像彫刻・絵画・工芸品・典籍文書・考古資料・歴史資料などの寺宝(文化財)を多数収蔵し、この中の優品を展示公開しています。
国宝 薬師如来仏頭[銅造:白鳳時代・天武14年(685)]
国宝 阿修羅像(八部衆像)(表紙写真)・十大弟子像[乾漆造:奈良時代・天平6年(734)]
重文 仏手[銀造:奈良時代]
国宝 板彫十二神将像[木造:平安時代]
重文 薬師如来坐像[木造:平安時代]
重文 釈迦如来坐像[木造:平安時代]
重文 地蔵菩薩像[木造:平安時代]
国宝 法相六祖坐像[木造:鎌倉時代:康慶作・文治5年(1189)]
重文 梵天像[木造:鎌倉時代:定慶作・建仁2年(1202)]
国宝 金剛力士像[木造:鎌倉時代]
重文 釈迦如来仏頭[木造:鎌倉時代]
国宝 天灯鬼・竜灯鬼像[木造:鎌倉時代:康弁作・建保3年(1215)]
国宝 千手観音像[木造:鎌倉時代]
重文 梵天・帝釈天像[木造:鎌倉時代]
重文 阿弥陀如来坐像[木造:鎌倉時代]
重文 弥勒仏半跏像[木造:鎌倉時代]
重文 吉祥天倚像[木造:南北朝時代:寛慶作・暦応3年(1340)]
磬[銅造:中国唐時代]
国宝 中金堂鎮壇具[銀鋺:銀製鍍金鋺・水晶玉:奈良時代]
国宝 南円堂灯篭・火袋扉[銅造:平安時代:弘仁7年(816)]写真I
県指定 舎利厨子[木造:南北朝〜室町時代]
*これらの収蔵安置のものは、随時移動がありますのでご了承下さい
@仏頭、A須菩提像、B迷企羅像、C伝玄ム像、D阿形像、E竜灯鬼像、F千手観音像、G吉祥天倚像、H華原磬、I火袋扉銘文
国宝 梵鐘[銅造:奈良時代:神亀4年(727)]
国宝 華原
興福寺・東金堂(国宝)
唐招提寺の境内には、上の句の碑が立っている。俳人・松尾芭蕉は貞享5年(1688年)の春に唐招提寺を訪れ、鑑真大和上の像と対面したときこの句を詠んだ。
『笈の小文』には、「招提寺鑑真和上来朝の時、船中70余度の難をしのぎたまひ、御目のうち塩風吹き入りて、終に御目盲(しい)させたまふ尊像を拝して」と記している。
吉祥天女[きちじょうてんにょ]は福徳豊穣の守護神として崇敬され、
この吉祥天女の前で年中の罪業[ざいごう]を懺悔[さんげ]し、除災招福を祈る、いわゆる吉祥悔過[きちじょうけか]の本尊として祀られています
一見六重に見えますが、実は三重の塔で
す。これは各層に裳階[もこし]と言われる小さい屋根があるためで、
この大小の屋根の重なりが律動的な美しさをかもし出し「凍れる音楽」という愛称で親しまれています。
案内より
チェックインタイム13:00から
平成7年(1995)
の阪神大震災を契機に建物全体を調査したところ、柱の傾き、梁や垂木のたわみなどが著しく、直ちに修理する必要があることが判明した。そして、平成12年(2000)から10年計画で金堂の解体修理を行なうことになった
案内より
蓮池の中の玄奘塔
東塔水煙・尊い塔が火災にあわぬようにとの願いが水煙という形で祀られています。水煙に透かし彫りされた24人の飛天は笛を奏で、花を蒔き、衣を翻し、祈りを捧げる姿で、晴れ渡った大空に、み仏を讃えています。
1981年に再建された西塔
国宝館
国宝館
西国三十三箇所九番札所。北円堂と対になる八角円堂。現在の堂は江戸時代・寛政元年(1789)に再建されたもので、国宝の像は「興福寺国宝館」で拝見してきた。
案内より
案内より
興福寺の三つの金堂の一つであり、亀神三年(726)創建ですが、六度も焼失に遭い、応永二十二年(1415)再建されたものです
フジタホテル奈良
吉祥天女画像 【国宝】 奈良時代
1976年に再建された金堂
《ランチ》
ランチ A・B(土日祝除く) 1,200円
ホリデーランチ(土日祝のみ) 1,500円
フルール 2,000円
ステーキランチ 2,000円
ソレイユ 3,000円
《ディナー》
ダルジャン 4,000円
ステーキディナー 5,000円
リビエールコース 4,000円
アゼリアコース 6,000円
季節の味覚 7,000円
案内より
今年萩はすでに咲き終わっていました
ホトトギスがきれい
薬師寺(やくしじ)は、奈良県奈良市西ノ京町に所在する寺院であり、興福寺とともに法相宗の大本山である。南都七大寺のひとつに数えられる。本尊は薬師如来、開基(創立者)は天武天皇である。1998年に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されている。現・管主は山田法胤である(2009年8月?)。
薬師寺再建の歴史
1976(s.51) 金堂落慶
1981(s.56) 西塔落慶
1984(s.59) 中門落慶
1991(h.03) 玄奘三蔵院伽藍落慶
1998(h.10) 世界文化遺産に登録される
2000(h.12) 大晦日、平山郁夫画伯により「大唐西域壁画」が
玄奘三蔵院伽藍の壁画殿に献納される
2003(h.15) 大講堂落慶
南円堂(県文化財)
案内より
中学の修学旅行で泊まった
魚佐旅館がまだありました
柿の葉寿司でエネルギー満タンに
案内より
7階
ホール 34席 カウンター 10席 個室 92席 ※内訳(お座敷10+12+70)
ランチ 11:30〜14:00 ディナー
17:00〜21:00
花のお寺、元興寺
五重搭(国宝)
高さ51メートル。古塔としては、京都の東寺の五重塔55メートルに次ぐ高さで天平二年(730)藤原不比等の娘・光明皇后の発願で建立。
現存の建物は、室町時代の応永十三年(1426)に建てられた六度目の室町時代の建物ながら、全体に創建当時を伝える純和様の名建築である
1977年までは「元興寺極楽寺」と称していた元興寺(がんごうじ)は、【古都奈良の文化財】として世界遺産に登録されています。
同じ奈良市の芝新屋町にある元興寺という寺院がありますが、元々は一つの寺院でしたが、世界遺産に登録されているのは中院町の元興寺です。
花のお寺とも呼ばれるこの寺院は、日本最古のお寺を718年に奈良に移されたものです。
まるでアニメの一休さんに出てくるような素朴な雰囲気漂うお寺で、四季を通して美しい花が咲き乱れるお寺です。季節ごとの花は、3月下旬に椿、
月上旬には桜、6月上旬から9月の下旬にかけては桔梗が咲き、9月の下旬からは萩が見頃になります。
ステーキディナー 5,000円
白毫(びゃくごう)とは、仏の眉間にあって常に光明を発したという白い毛のことをいう。
南都「鏡神社」は新薬師寺と隣接し
ており訪れると赤い鳥居が目立ち新
薬師寺より先に目に入ります。
鏡神社は大同元年(806)に新薬師
寺の鎮守として勧請されたと伝えら
れております
志賀直哉邸
大和遊膳
3,800円
チェックインを済ませ レンタサイクルでおでかけ 3;30出発
一台500円
1998年12月 興福寺は世界文化遺産に登録されました。
興福寺
花の寺としても知られる白毫寺の境内には、たくさんの椿や萩が植えられている。
中でも興福寺から移植したという「五色椿」(県天然記念物指定)は、東大寺開山堂の「糊こぼし」伝香寺の「散り椿」とともに三名椿と呼称されている。
万葉集にも登場する高円(たかまど)山の西麓に位置する白毫寺境内からは、奈良の街並みが眺望でき、椿などの花の寺としても知られる。
寺宝の閻魔王及びその眷属の仏像(何れも重文)も身が竦むような迫力があって必見。
南都鏡神社
JR・近鉄奈良から歩いて5分。
世界文化遺産である興福寺や春日大社へも徒歩圏内で、
大変便利な場所に位置しています。
案内より
チェックアウト 11:00
2003年(平成15年)3月21日完成
興福寺国宝館拝観券に記載の説明から。