右手は青横駅 すずらん通り

4月2日
目黒川 桜
MY

ここは毎年見事な景色   橋を渡って対岸から戻ります

開花宣言後 雪にも負けず延々と咲いています

居木橋付近

スマホでも撮影

おでかけR2年

品川寺(ほんせんじ)

直進して仙台坂トンネル出口まで行きます

橙?

案内より

目黒川にかかる とうかいはし を渡り川沿いの桜を見て 旧東海道に入ります

荏原神社に行く橋

翡翠館の壁が完成しています

遊覧船が来ないのでユリカモメものんびり

八重桜

ここで左折して御殿山方面に行きます

スマホの画像

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花筏になりかけ

桜 目黒川
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初めは金華山大円寺と称し、後改めて海照山普門院と号する。中興開山弘尊が承応元年に再興した。
貞享3年7月太田摂津守資直はひそかに寺領100石を寄附した。
本尊の正観音は太田道灌の持仏で、長禄年品川の館から江戸城に移った頃、武運の長久と城中及江戸鎮護の為、
この本尊を堂内に安置して伽藍を建立した。

水月観音は竜宮出現の像と伝えている。
弘法大師が東国遊行の時、この地の押領使品川某に附属され、その家に代々仕えて品川左京亮の時に至っている。
後応永年中上杉禅秀の乱の時一族皆討死する。その時本尊を草堂にかくしていた為世に伝えていると云う。
妙国寺所蔵永享10年某氏憲泰の寄附状に、寺の南に観音堂のあることを載せているのはこの堂であるとも云う。
その後関東は大いに乱れ、多くの自社の兵火に焼失し、永禄9年小田原の北条氏政今川家に加勢して武田信玄と戦う時に、
信玄の北からの急撃により、江戸・品川の民家寺社を焼き払った。当寺も兵火の為ことごとく焼失し、
竹森、蔭村という二人の武士によって本尊はうばわれたが、甲州に帰ってまもなく発狂し、
本尊を元の地へ遷す様霊夢があって、一人の乞食の聖に頼み旧地にかえしたが、堂宇も焼け亡んでいる為、
その礎石の上にわら小屋を作り安置した。その後弘尊法印が堂宇を建立して海照山普門院と唱える様になった
品川寺の概要
真言宗醍醐派の品川寺は、海照山普門院と号し、真言宗醍醐派の別格本山です。
品川寺の創建年代は不詳ですが、当初金華山大円寺と称し、弘尊が承応元年に中興開山しました
。戦国時代、兵火により焼失しましたが、海照山普門院と改称して復興しております。
江戸三十三観音霊場31番霊場、東海三十三観音霊場21番札所、東海七福神の毘沙門天となっている他
、山門前には江戸六地蔵の一つが安置されています。

品川寺にありましたのでいただいてきました

案内より

品川寺の創建年代は不詳ですが、当初金華山大円寺と称し、弘尊が承応元年に中興開山しました。
戦国時代、兵火により焼失しましたが、海照山普門院と改称して復興しております。
天台宗寺院の常行寺は、熊野山報恩院と号します。常行寺は、慈覚大師が開基となり、嘉祥3年(850)に創建、長保年間(999-1003)には恵心僧都が住持を勤めたという古刹寺院だといいます。
その後衰微したものの、寶海僧正が大永6年(1526)に中興、檀林として末寺500ヶ寺以上を擁していましたが、江戸時代に
東叡山
寛永寺の創建後に檀林を止められ、品川から川崎にかけての中本寺寺院となり、承応2年(1653)大井村から当地へ移転したといいます。
天台宗 ※ 常行寺

東京マリオットホテル

電車を見るならここ

目黒川を右に見て国道へ

14:39例年なら人出が多い時期ですが新型コロナの影響で全く人がいません

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伽藍

15:40 国道に出て帰ります  1時間15分のお花見でした

鐘楼

桜はいつものように満開

ここまでちらほらと人がいましたが

200327

品川寺六地蔵

新幹線 のぞみ号

誰もいません

14:32 出発

緑の若葉が

品川寺山門

国道に出ました

品川神社

ここのカーブが良い

新幹線を横に見ながら

公園の桜を眺めつつ